歴史に満ちたこの場所で。

日本遺産
「播但貫く 銀の馬車道 鉱石の道」。
その秘めた魅力が時を超え鼓動する。

「銀の馬車道」は、生野鉱山道とも呼ばれるように明治新政府が産業を支える新たな物流手段として、日本で初めて築いた高速産業道路です。瀬戸内海の姫路・飾磨港から朝来・生野鉱山へと南北一直線に播但を貫き、さらに我が国屈指の鉱山群を結ぶ「鉱石の道」が生野鉱山を起点として明延鉱山、中瀬鉱山へと続きます。それは資源大国日本の記憶をたどる73㎞の轍。そこには、明治・大正・昭和へと連なる時の軌跡を巡る旅があり、日本の近代化を牽引した鉱山文化の輝きと温もりに触れる旅があります。
あなたも都会の喧騒を離れ、一つの栄華を極めたや鉱山町や産業遺産が放つ不思議なパワーと出逢ってみませんか。

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と
時の権力者たちの財政を支えた
「生野銀山」。

竹田城跡から南へ足をのばすと、鉱山町の面影を色濃く残す生野の町が姿をあらわします。かつて「佐渡の金・生野の銀」と言われた全国屈指の鉱山まち生野は、近代的な都市機能のすべてを備えた町として隆盛を極めていました。
その繁栄の原点となった「生野銀山」は大同2年(807年)に銀が発見されたと伝えられ、室町時代の天文11年(1542年)に但馬守護職・山名祐豊(すけとよ)が銀鉱石を掘り出したのが本格的な銀山開坑の起源とされています。永禄10年(1567年)には日本最大の鉱脈が発見され、「銀山旧記」には「銀が出ること土砂のごとし」と記されるほどの産出量を誇りました。
この生野銀山を手に入れた豊臣秀吉は積極的な鉱山開発を推し進め、慶長2年(1597年)には但馬の運上銀が日本全国の78%を占めたとも言われています。その後の江戸時代になっても生野銀山は天領として栄え、佐渡金山、石見銀山とともに徳川時代の財政を支えていきます。
明治時代を迎え、日本初の官営鉱山となり、明治22年(1889年)には皇室財産に移されました。その面影は銀山入口の門柱に刻まれた菊の紋章に見ることができます。明治、大正と時は流れ、昭和48年(1973年)に閉山。その翌年に観光施設として、現在の「史跡・生野銀山」が開業しました。

謎がロマンを呼ぶ竹田城。
その役割の一つは
生野銀山を守ることであった

竹田城の築城時期については未だ確固たる資料が見られず、城跡の下の曲輪跡は南北朝時代の様相を呈しているという所見もあり、この城の起源については未だ謎に包まれています。
竹田城は7代に渡る太田垣氏の時代を経て、永禄12年(1569年)の豊臣秀吉による但馬に攻めに続き、2度にわたる秀吉軍の但馬攻略で落城する事となります。そして天正13年(1585年)には赤松広秀が城主となり、10数年をかけて城郭を整備し、現在の形になったと言われています。その後、江戸幕府の命によって竹田城は廃城となります。
そこから約400年を経た現在でも、石垣がほぼそのままの状態で残っており、現存する山城として日本屈指の規模となっています。
そんな竹田城は、但馬、播磨、丹波に通じる交通の要衝を一望する標高353.7mの古城山(虎臥山)の山頂に築かれており、生野銀山を守る役割も担っていました。豊臣秀吉の真の狙いは竹田城から程近い「生野銀山」を手中に収めることにありました。これは織田信長や豊臣秀吉にとって、経済面の基盤を磐石にするとともに、天下統一への軍資金を得ることが目的であったと言われています。

自分自身と向き合える、
ここでしか叶わない贅沢な時間を。

真の美しさと健康は心と身体のバランス

歴史のロマンを感じながら体験できるヨガはまた格別。
風や日差しを浴び、呼吸を整えながらポーズに集中すれば、
日頃の疲れやストレスを発散し、心も体もクリアになります。
「竹田城」での貴重な時間をゆったりと過ごしましょう。

開放的な空間で深い呼吸を

自分自身と向き合える、ここでしか叶わない贅沢な時間です。
都会の喧騒から離れ、クリアな気持ちでヨガに集中できます。
パワーをチャージするイメージで、大きく呼吸してみましょう。

かつて不夜城と呼ばれ
東洋一を誇った「神子畑選鉱場」。

神子畑選鉱場は、かつては銀と銅を産出する神子畑鉱山として繁栄した時期があり、その歴史は古く、800年頃から鉱山として開拓されていたと言われています。一時は生野の支山として幕府の管理下に置かれました。明治政府も力を注ぎ、当時生野にあった外国人居住の一部や鉱山事務所が置かれました。しかし不安定な産出量のため大正6年に閉山し、大正8年より隣町にあった多品種非鉄金属鉱山「明延鉱山」から運び込まれた鉱石を選鉱する大規模な「機械選鉱場」として生まれ変わりました。山の斜面を利用した近代的選鉱施設は、その規模・選鉱量ともに「東洋一」と謳われています。特に「比重選鉱技術」は国際的にも高く評価され海外からも視察団が訪れるほどでした。しかし昭和62年、円高の急激な進行で競争力を失った明延鉱山の閉山に伴い操業を停止。平成16年に老朽化した建物が取り壊され、コンクリートの基礎のみが残されました。その不思議な景観と迫力あるスケールは、まさに「東洋一」のパワーを感じずにはいられない絵になる産業遺産です。

※鉱山事務所は現在も「ムーセ旧居」として神子畑選鉱場などの資料展示や写真を飾る
ムーセハウス写真館として保存活用されています。

白壁の塀や錦鯉が泳ぐ
小川、松並木…。
歴史の光を浴びながら歩きたい
「寺町通り」。

竹田城跡の古城山(虎臥山)のふもと、竹田城の初代城主、太田垣光景や最後の城主、赤松宏秀の菩提寺など、宗派が異なる4カ寺と表米神社が並ぶ約600メートルの区間は「寺町通り」と呼ばれ、歴史散策路として親しまれています。
竹田城にまつわる歴史の扉をひらくと、そこには数奇な運命に翻弄された日本刀「獅子王」がまぶしい光を放ちます。
源平盛衰記によると、獅子王は平安時代に京を騒がせていた妖怪「鵺(ぬえ)」を退治した源頼政が天皇から褒美として賜った太刀と言われ、赤松家が代々受け継いだとされています。しかし赤松広秀が徳川家康に切腹を命じられ、竹田城が廃城となった際に「獅子王」も幕府に没収され、明治になって皇室に献上されました。現在は東京国立博物館が保管し、国の重要文化財に指定されています。
そんな「獅子王」の写し刀が東京国立博物館の協力と兵庫を代表する刀工・高見國一氏の手によって、418年の時を超え竹田の地に甦りました。

※写し刀「獅子王」は特別展のみ。開催は不定期です。

歴史のある町を
ノルディックウォーキングで楽しむ

ノルディックウォークは、健康長寿アップの味方

1時間あたり約400Kcalを燃焼させるノルディックウォークは、体に酸素を送り込み、糖質や脂肪を燃焼させる有酸素性運動です。姿勢や呼吸も整えられ、血液循環システムを活発にします。生活習慣病などの予防として、健康なカラダづくりを。

筋力UP! 消費カロリーUP!で美容にも。

全身の筋力UPや引き締めが期待できるノルディックウォークは、通常のウォーキングに比べ酸素摂取量12%UP・消費カロリー20%UPと言われています。ウォーキング効果を取り入れて、カラダ全体の美容効果を感じましょう。

癒す・整える・満たす。
歴史がつまったこの場所で、
心と体を開放しよう。

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